なかなか更新できないままのこのブログ・・・
このたび移転することにしました。
今後更新できるかどうかはわかりませんが
これまでの記録、記憶、試行錯誤を
いつでも振り返ることができるように。
自分でもときどき覗こうと思います。
Sun Dance
http://sundancemiho.blogspot.jp/
なかなか更新できないままのこのブログ・・・
このたび移転することにしました。
今後更新できるかどうかはわかりませんが
これまでの記録、記憶、試行錯誤を
いつでも振り返ることができるように。
自分でもときどき覗こうと思います。
Sun Dance
http://sundancemiho.blogspot.jp/
35年生きてきても
わからないことがいっぱい。
車にぶつかる鹿と車につぶされる虫。
屠殺される牛と捕獲される鼠。
調査される鯨と釣られる魚。
化学兵器と農薬と殺虫剤。
捨てられるペットと捨てられる赤ちゃん。
山を削って建てる家と川をせき止めるダム。
海の埋め立てと海のポイ捨て。
垂れ流される原発の放射性物質と工場の化学薬品。
どれが悪いの?どれなら許されるの?
命の重みは平等ではないの?
ただわかっているのは
どんな命も数多くの奇跡を積み重ねて
いま生きているということ。
わからないことはたくさんあるけれど
そんなわからないことをわからないなりに
素直に伝えていきたいと思った
35回目の誕生日。
手仕事フォーラムが発行している冊子「SILTA」を読んで、
ふと見つけた文章。
その文章が、好きな言葉とリンクして、一本に繋がりました。
SILTA 19号 宗廣コレクションと芹沢銈介の仕事
吉田桂介氏のお話より抜粋
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たとえば、那智の滝ののれんがありますね。
先生のおうちに行くと染めたものが下げてあるんです。
ところが次に行くと文様が少し変わってる。
そして次に行くとまた変わってる。
初めは雲や波があったんですが、行くたびに
簡略化単純化されていって、
最後に滝がすーっとおりてきて後は何もない。
そして非常に品格の高いものになっている。
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アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの言葉より
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「何においてであれ『完全』とは、すべてを脱ぎ去り、
ありのままの姿に戻ったとき、つまり、
加えるべきものがなくなったときにではなく、
取り去るものがなくなったときに達成されるのである」
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美しい文章や、美しい言葉に出会うと
自分が求めているものや
自分に何が足りないかを見出せる気がします。
今日気がついたのは、美しさは余計なものを脱ぎ去った
無心の中にあるということ。
たくさんたくさん考え抜いて、同じことを繰り返した結果、
考えるということをせずとも勝手にからだが動くようになる。
無我夢中。無我の境地。
美しさが生まれる瞬間には、無心であり、見返りがない。
こんなにいいことをしているんだ、と人に言ったり
自分が何のために生きているかを何度も確認するのは、
未だ道の途中であり、迷走している証拠。
そうしているうちは人の目を気にし、他人に手をだし口を挟む。
純粋な目的のためにではなく、「自分の好きな自分」で
いるために何かをし、そういう自分に酔っているので、
「有我霧中」である。
「母親に褒めてもらいたい」という心理は根深い。
いつも誰かに褒めてもらいたいのかもしれない。
でも真の名作や偉業は、本人が何も言わずとも歴史に残り、
本人が何も言わないほどに美しい。
民藝の手仕事もしかり。
名を残そうと作られたものは凝ったデザインになったり、
本人の個性が強いものになる。
本当にいいものは個性が消えるほどシンプルで
使うほどその美しさや力強さに気付かされる。
その境地に至るのは本当に難しい。
これからもたくさんの美しいものや人に触れ、
削ぎ落とす生き方を実践していきたいです。
今月は誕生月です。
35年。
70年生きられるとしたら、折り返し地点。
元気に育って、結婚して、こどもを授かって
毎日一生懸命育児に携われることに感謝。
たいしたことは出来ていないけれど
これからも少しずついろんなことを吸収して
まだまだ自分の脳やからだを刺激していきたい。
この15年くらいずっと思っているのは
まるくて、やわらかくて、柔軟なひとになりたい。
考えていることは刺激的で、とんがっていても。
やっていることは革新的で、常識はずれでも。
それをそのまま口に出したら、パンクでメタルで、
それはそれでかっこいいかもしれないけれど
1つ言われて、100言い返すひとよりも、
100言って、相手を黙らせるひとよりも、
100聞いて、1つ言って、大地のようにつつみこむ。
そんなひとになりたいと思う。
男に生まれていたら、もっと尖って外に出て、
「死ぬまでにあれもこれもやらねば」
と思ったかもしれないけれど、女として、母親として、
いつでも家族の帰りを待つ存在でありたい。
いつでも家族の気持ちを受け止める立場でありたい。
知識をナイフとして使うのではなく、
蜘蛛の巣のように編み込んで、まあるく紡いで、
いろんなものをキャッチして、また透明な糸を出す。
雨が降ったらきらきら光って、水滴を落とす。
そんな、懐が深い人。
懐が深い=相手になかなか回しを取らせない、
うーん、なるほど。
やっぱり、ずーんと大きく受け止めるのがまず第一なのか。
相撲も柔道も、本当に強い人は「やわらかい」のだ。
これからもたくさん受け止めつつ、
まんなかをしっかり貫いていこう。
なかなかブログを更新できぬまま、育休もあと2ヶ月。
娘は来月から保育園に通います。
いままでべったり2人で過ごしてきただけに、
日中離れるのが少しさみしいです。
保育園と復職に向けて、現在卒乳(断乳)に挑戦中です。
これは母にとっても子にとっても試練です。
娘は特に甘えん坊のおっぱい好きなので、一筋縄では
いかなさそう。でも、
「母がやめようと思ったときが卒乳のタイミング」
という言葉を聞いて、決意しました。
とにかく眠くて、昼間思うように活動できない。
子どもが寝た後の唯一の自由な時間も眠くて起きられない。
なによりずっと体調が万全じゃない。
というわけで、夫に寝かしつけを協力してもらって
4日目に突入しています。が、相変わらず起きる娘・・・
どうなることやら。
1人の子育てから2人の子育てになって、ますます
夫の助け無しではやっていけない、と思うようになりました。
我が家は2人の実家がやや遠いので、夫に頼るしかありません。
妊娠、出産、産後、そして乳幼児期の子育てにおいて
もし父親が協力的でなかったら、母親の父親に対する気持ちは
確実に悪い方に変化するのではないかと思います。
ただでさえ産後の母親の心身は不安定で、本能的に子育てに
集中し、男性を遠ざけようとします。
母親と子どもの結びつきは強められ、父親と母親のつながりは
途切れてしまう・・・
母親がひとりで頑張ってしまいがちな核家族が増えている今、
そんな家庭は少なからずあるのではないかと思います。
父親になる男性に、出産や子育てについての知識や
母親が必要としていることを伝えることは、家族の幸せに
つながるのではないかと実感した1年でした。
由比ケ浜
コシ〜ハラ
風向:東→南
今日は半年ぶりのサーフィン。
最高の天気、練習にちょうどいい波、
ゆったりしたビーチの雰囲気。
心身ともにリフレッシュできました。
限られた時間だと、いつも以上に集中して
波に乗れる気がします。
今日はわりと波数が多くテイクオフも
しやすかったので、たくさん乗れました。
波打ち際で私を見つめながら待つ息子。
パドルで沖に戻るときは息子が大声で
「ママー!ママー!がんばれえー!!」
と叫んでくれました。
娘は夫の背中でぐうぐう寝てくれました。
私が上がってからは、ウェットスーツを
着込んだ息子が波打ち際でサーフボードに
立つ練習。さらに交代で夫がほんの少し海へ。
こうして家族4人で海を楽しめるようになった
のが、なによりも嬉しかったです。
車を手放したので、自転車で通うようになった
海。サーフィンの楽しみ方もよりシンプルに
なった気がします。
家に帰ってきて、パソコンをつけたときに
Doodleを見て今日が母の日だと気付きました。
最高のギフト、家族に感謝です。
8ヶ月を迎えた娘の頬は、すっかりきれいになりました。
7ヶ月までは、湿疹が出たり引っ込んだり、を繰り返して
いたのですが、湿気が多くなったせいか月齢のせいなのか
すっかり改善しました。
空気が乾燥している間はぬるま湯をかけるだけで
お風呂に入れていなかったのですが、やっと家族4人
揃って入浴できるようになりました。
夏生まれの赤ちゃんには皮膚トラブルが多いと聞きます。
治るだろうと思っていても、湿疹だらけの肌を放置する
のは勇気が要るもの。近所の皮膚科の先生に
「放っておけば治るよ。ステロイドなんてかわいそう」
と言われなければ、私も薬に頼っていたかもしれません。
乳児湿疹で悩むママのブログでは、娘と同じように
1歳近くなって改善するケースが多いように感じます。
それまで我慢できるか、が勝負。
耳や顔を引っ掻く癖も湿疹のかゆみのせいかと
思っていましたが、今でもよく掻いているので
赤ちゃんの習性みたいです。
アトピーになってしまうのは、薬や保湿クリームに
依存してしまうのもひとつの原因かもしれない・・・
と今回の経験を経て考えるようになりました。
最近ではびわの葉エキスもほとんど使用していません。
まだ手や足ががさがさしている部分もありますが、
基本的に放置。
引っ掻き傷などを見ていても、本当に赤ちゃんの
治癒力はすごいものなので、赤ちゃんが苦しんでいる
様子がなく、見た目だけの問題であればママは
優しく見守ってあげるのが、一番の薬なんだと思います。
大人の肌トラブルについては、なかなか完全な治癒が
難しいのですが、我が家ではとりあえずこの冬
びわ葉エキスと梅エキスで乗り越えました。
鹿児島滞在中、親戚のおじさんの家をたずねてきた
初対面のおばあちゃんと話しました。
そのおばあちゃんは父の小さい頃を知っているそうで
私と子供たちの顔を見てとても喜んでくれました。
おばあちゃんは手拭をしてもんぺを履いていて
いかにも昔のおばあちゃん。
「田植えの時期は忙しくなりますね」と聞くと
「最近じゃ米を買ってしまう方が安いんだけんど
ご先祖さまからもらった田んぼだからー」
と言っていたのが印象的でした。
一昔前までは日常生活にたくさん登場していた
であろう「ご先祖さま」という言葉。
顔も知らぬご先祖さまを、自分たちの身近にある
自然の中に、暮らしの中に、感じていた時代。
日本人はそうやって、自然の中に神さまや
ご先祖さまの存在を感じる力を確かにもっていた
ことを改めて実感しました。
おじさんの家の前に広がる田んぼの一番奥には
鳥居があって、その裏には鎮守の森が広がっています。
当たり前だった日本の風景。
ご先祖さまとの繋がりを感じる、自然と信仰。
数十年後、その田んぼと森はどうなっているのだろう。
ネイティブアメリカンが七世代先の子孫のことを
考えていたように、日本人は何世代も前の
ご先祖さまのことを考えていました。
それって実は同じような意味をもっているのでは
ないかと感じています。
ご先祖さまの大切にしていたものを残すってことは
子孫にかけがえのないものを残すことなんじゃないか、
と・・・
田んぼをなくして家を建てるのも子孫のためかも
しれませんが、そこに自然と信仰はなくなってしまう
ということが、実際の田んぼを見てわかりました。
忙しく仕事をしているオフィスの中で
ぐったり疲れて乗る最終電車の中で
ご先祖さまへの感謝の気持ちは、
なかなか感じることはできない気がします。
その土地を自然のまま残すということは
その土地を守ってきたひとたちの思いを残すこと。
古いマンションが新しいマンションになるのとは
まったく違う意味がある。
なにかを残すというのは並大抵の努力では
できないこと。
いつかどこかで何かを覚悟しなくては。
普段テレビのない生活をしていると、テレビの中で
起こっていることを、割合客観的に眺められることに
気づきました。
鹿児島で久しぶりに昼下がりのテレビ番組を見ていたら、
CMのほとんどが生命保険、特に医療保険。ターゲットは
その時間にテレビを見る暇がある65歳以上の癌に備えたい人。
人間にとって、生まれて歳をとり病になって死ぬのは
最も自然なことであるのに、現代ではそのすべてに
お金が絡んでいて、不自然なものになってしまいました。
自然なことであれば、それが予測不可能なのは当然なこと
だけれど、現代人は生老病死から逃れようと必死です。
CMでも「万が一に備えて」と、あたかも病気や死が
滅多にやってこないもののように言っていました。
予定出産、整形、生命保険、お墓の購入、延命処置…
最も自然で予測できないはずの生老病死にまでも、
お金を払って備えることで安心を手に入れようとする私たち。
先日読んだ本の中に「病を得て死ぬ」という表現があって、
これはいいなと思いました。
病にならずに死ねるほうが珍しいことで、ほとんどの死は
病によるもの。老いて弱れば、病になるほうが自然
なのですね。
病や死に方は日々の衣食住働に拠るところが大きいので
なるべく自然に世を去るためには、やはりなるべく
自然に生きてみるのがいいように感じます。
考え過ぎず、徒然なるままに。
そこらじゅうに溢れる問題は、ややこしそうに見えて
実は単純であることが多いもの。
テレビの声ではなくからだの声を聴き、心と脳を
解放しながら日々からだが動くままに生きたいと
思いました。
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