大切な人を失ってから、数ヶ月。
猛烈に「死」によって繋がることを求めた。
今まで聴いていた音楽は聴けなくなり
今まで読んでいた本は読めなくなり。
今まで話していたことを話せなくなった。
死んだ人の歌を聴き
誰かが死ぬ本や、誰かを失った人の記事を探し
同じ体験をした人と悲しみを分かち合い
死と命について、いろんな人と話した。
・
・
・
こんなにも「共有」を求めたのは、はじめてで、
でもそれは死を乗り越えるために必要な、ひとつの段階
だったんだと思います。
半年以上たって、ようやく「生きている」音楽が耳に入り
生き様や生活、歴史を語る本を読めるようになり
自分の生活に目を向けられるようになりました。
私たちが避けて通ることのできない「死」は、愛する人の死
を経験することで、はじめて受け入れられるものかもしれない
と思いました。
出産と死という、「決まった道のない」出来事。
その道は隣り合わせの再生への道。
見えないものを受け入れるための道。
カトリックの儀式であるAsh Wednesdayでは、人々が懺悔の
ために頭に灰をふりかけるそうです。
灰である理由は「死と再生の象徴」だから。
遠い昔から人々は、死と再生が共に存在することを
知っていたのですね。きっと今よりずっと死が身近に
あったから、死によって生かされる意味を身を以て
感じていたのではないかと思います。
それを感じるために必要なのは、与えられることと
与えることに対する感謝なのだ、と日々実感しています。
最近のコメント