鹿児島滞在中、親戚のおじさんの家をたずねてきた
初対面のおばあちゃんと話しました。
そのおばあちゃんは父の小さい頃を知っているそうで
私と子供たちの顔を見てとても喜んでくれました。
おばあちゃんは手拭をしてもんぺを履いていて
いかにも昔のおばあちゃん。
「田植えの時期は忙しくなりますね」と聞くと
「最近じゃ米を買ってしまう方が安いんだけんど
ご先祖さまからもらった田んぼだからー」
と言っていたのが印象的でした。
一昔前までは日常生活にたくさん登場していた
であろう「ご先祖さま」という言葉。
顔も知らぬご先祖さまを、自分たちの身近にある
自然の中に、暮らしの中に、感じていた時代。
日本人はそうやって、自然の中に神さまや
ご先祖さまの存在を感じる力を確かにもっていた
ことを改めて実感しました。
おじさんの家の前に広がる田んぼの一番奥には
鳥居があって、その裏には鎮守の森が広がっています。
当たり前だった日本の風景。
ご先祖さまとの繋がりを感じる、自然と信仰。
数十年後、その田んぼと森はどうなっているのだろう。
ネイティブアメリカンが七世代先の子孫のことを
考えていたように、日本人は何世代も前の
ご先祖さまのことを考えていました。
それって実は同じような意味をもっているのでは
ないかと感じています。
ご先祖さまの大切にしていたものを残すってことは
子孫にかけがえのないものを残すことなんじゃないか、
と・・・
田んぼをなくして家を建てるのも子孫のためかも
しれませんが、そこに自然と信仰はなくなってしまう
ということが、実際の田んぼを見てわかりました。
忙しく仕事をしているオフィスの中で
ぐったり疲れて乗る最終電車の中で
ご先祖さまへの感謝の気持ちは、
なかなか感じることはできない気がします。
その土地を自然のまま残すということは
その土地を守ってきたひとたちの思いを残すこと。
古いマンションが新しいマンションになるのとは
まったく違う意味がある。
なにかを残すというのは並大抵の努力では
できないこと。
いつかどこかで何かを覚悟しなくては。
普段テレビのない生活をしていると、テレビの中で
起こっていることを、割合客観的に眺められることに
気づきました。
鹿児島で久しぶりに昼下がりのテレビ番組を見ていたら、
CMのほとんどが生命保険、特に医療保険。ターゲットは
その時間にテレビを見る暇がある65歳以上の癌に備えたい人。
人間にとって、生まれて歳をとり病になって死ぬのは
最も自然なことであるのに、現代ではそのすべてに
お金が絡んでいて、不自然なものになってしまいました。
自然なことであれば、それが予測不可能なのは当然なこと
だけれど、現代人は生老病死から逃れようと必死です。
CMでも「万が一に備えて」と、あたかも病気や死が
滅多にやってこないもののように言っていました。
予定出産、整形、生命保険、お墓の購入、延命処置…
最も自然で予測できないはずの生老病死にまでも、
お金を払って備えることで安心を手に入れようとする私たち。
先日読んだ本の中に「病を得て死ぬ」という表現があって、
これはいいなと思いました。
病にならずに死ねるほうが珍しいことで、ほとんどの死は
病によるもの。老いて弱れば、病になるほうが自然
なのですね。
病や死に方は日々の衣食住働に拠るところが大きいので
なるべく自然に世を去るためには、やはりなるべく
自然に生きてみるのがいいように感じます。
考え過ぎず、徒然なるままに。
そこらじゅうに溢れる問題は、ややこしそうに見えて
実は単純であることが多いもの。
テレビの声ではなくからだの声を聴き、心と脳を
解放しながら日々からだが動くままに生きたいと
思いました。
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